ピアニストワイセンベルクの生い立ち・亡命・黒柳徹子との恋&別れ
2017/12/30
黒柳徹子さんの恋人ではと噂されていた国際的なピアニスト、
アレクシス・ワイセンベルクのことを調べてみたいと
インターネットで検索しても、
ウィキペディアでさえ、あまり詳しく書いてなかったので
いろいろと調べていくと
ワイセンベルクは、
ブルガリアに生まれ、ユダヤ人であったことから
第二次世界大戦の終わりナチスの迫害を恐れ、
亡命しようとして、失敗し、
強制収容所に入れられていたことなどを知りました。
もしかすると、
アレクシス・ワイセンベルクというピアニストは
この世に存在できなかったかもしれない運命を変えた人たちがいることを知り
アレクシス・ワイセンベルクの生い立ちなど
あまり知られていない部分をまとめてみたいと思います。
ドラマトットちゃん!で
城田優さん演じるカール・祐介・ケルナーがかっこよすぎて
黒柳徹子さんの恋にドキドキしながら、
トットちゃんが恋に落ちたのがアレクシス・ワイセンベルクなら
どんな人だったのか思いをはせてみたいなと思います。
Contents
ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルクの生い立ち・プロフィール
1929年7月26日、アレクシス・ワイセンベルクは誕生しました。
生まれはブルガリアのソフィア、
ユダヤの家庭に1人っ子として誕生。
とても端正なマスク、エレガントな仕草で大変人気のあるピアニストだったそうです。
テレビにCharles AznavourやNana Mouskouriなどのシンガーと一緒に共演したり、
ピアニストの枠にとどまらず、活躍しました。
日本でもアレクシス・ワイセンベルクのCDを購入することができます。
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黒柳徹子さんの
40年間交際していた外国人恋人はアレクシス・ワイセンベルクではないか?と噂でした。
黒柳徹子の40年交際の外国人恋人はピアニストのワイセンベルク?
アレクシス・ワイセンベルクとピアノの出会い
国際的なピアニスト、ワイセンベルクがピアノを始めたのは幼児の時。
母がピアノを教えてくれました。
ワイセンベルクの家庭は、音楽家一家だったといいます。
母のレッスンは厳しく、
手の位置、手首の柔軟性、テクニック、テンポのコントロールなど
幼少期からピアノの英才教育を受けていました。
わずか5歳のときには、
ブルガリアの作曲家Pantcho Vladiguerovのもと、
作曲を学んでいたワイセンベルク。
”彼のレッスンは、とても直観的で、
柔軟な先生だった。
生徒に、個々の気質はちょっとしたスパイスではなく
演奏の道具となりうる可能性があるという気付きをもたらしてくれた”
と回想しています。
ワイセンベルクのピアノは、
テクニックだけでなく、そこに繊細さと温かさを感じるといわれるのは、
幼少期に師事した先生の影響もあるのかもしれません。
その後、ワイセンベルクは
10歳の若さで初のリサイタルを開きます。
そこで、
ロベルト・シューマンやベートーベンなどの曲に加え、
自分で作曲した曲も披露しています。
そのときのことをワイセンベルクは
”ステージと自分が一体になった初めての経験だった。
本当に気持ちがよかった”
と語っています。
ワイセンベルクの亡命と失敗、そして強制収容所へ
1943年、ワイセンベルク14歳のとき、
母とワイセンベルクはトルコへの亡命を決めます。
”父なしで、母と2人で亡命するためブルガリアを出た。
持っていったのは小さなカバン。
大きな段ボール箱、
ちょっとのサンドイッチ、
そして、空想上のピアノ…目を閉じればいつもすぐに現れるんだ。
そしてもう1つ、古いアコーディオン。
それは何年か前にお金持ちであった叔母に誕生日プレゼントとしてもらったものだった”
第二次世界大戦が終わりに近づき、
ドイツのナチスの迫害を恐れ、
偽の書類で母と2人、出国を試みましたが亡命に失敗し、
母とともにトルコとの国境近くの強制収容所に収監されました。
ワイセンベルクたちが送られた強制収容所は、
ほかの強制収容所とはさして違いがありませんでしたが
拷問や殺人などがなかったことがせめてもの救いでした。
強制所に存在していたのは、
3つの要素だけ。
静けさと歌声と泣き声
このとき、ワイセンベルクと母を救ったのは、
叔母が贈ってくれたアコーディオンでした。
ワイセンベルクたちの担当だった看守は
ドイツ人で大変な音楽好きでした。
特に、シューベルトが大好きで
ワイセンベルクに音楽を弾くことを許しただけでなく、
何度も何度もワイセンベルクにのもとを訪れ、
演奏するように頼むほどでした。
強制収容所で3か月過ごした後、
ある日、このドイツ人看守が
部屋の隅で硬い顔で、何の感情も示さない表情のまま座っていたのを
ワイセンベルクは覚えていました。
そして、その表情のまま、
ドイツ人看守は
ワイセンベルクたちを駅まで連れていき、
大きな段ボール箱に彼らを入れて
列車に乗せました。
開いた窓からあの叔母のアコーディオンを投げ入れ、
母に、
”幸運を” と言い残し、
その看守は消えていったことを覚えていました。
そして、30分後
ワイセンベルクたちは無事にトルコの国境を超えたのです。
これが亡命の成功でした。
きっとそのドイツ人看守は
ワイセンベルクの奏でるアコーディオンの音色に癒され、
まだ若い少年の未来をなんとか守りたいと考えたのでしょう。
母が教えたピアノの才能が、
ワイセンベルクと母の命を救ってくれました。
ワイセンベルクの命を救ってくれたアコーディオンは、
のちに野外コンサートを行った際に、
子供たちのグループのもとに置いてきたそうです。
亡命後、アレクシス・ワイセンベルクはピアニストの道へ
トルコへの亡命が成功し、
ワイセンベルクと母は、
イスラエルのハイファへと移動し、
そこからエルサレムを目指しました。
そこなら、ワイセンベルクが音楽を学べると母は考えたからです。
そして、
エルサレム音楽アカデミーに入学し、
Alfred Schröderをピアノの先生として師事し、
すぐに初のオーケストラとのコンサートを開いています。
第二次世界大戦が終わってすぐに
パレスチナ フィルハーモニー交響団のプレジデントのLeo Kestenbergは、
ワイセンベルクに3シーズン連続の協奏曲を約束し
その翌年、
南アフリカで15のリサイタルを開催しました。
そして、終戦後の1946年、17歳のアレクシス・ワイセンベルクは
ニューヨークへと旅立ちます。
Leo Kestenbergの書いた
Artur SchnabelとVladimir Horowitzへの2通の推薦状を持って。
そのときのことをワイセンベルクはこう語っています。
”そのLeo Kestenbergからの手紙は15回ずつは読んだ。
どちらも同じアドバイスをしていた。
奮い立たせるような教育、影響を与えるミュージシャンとしての心構えと
ブルガリアの作曲家、音楽教師、ピアニストであるパンチョ・ヴラディゲロフの熱意。
私は、ブルガリアでピアニストとしての準備はしっかりしていた。
私に必要だったのは、
もっと幅広い知識と、異なる文化への理解、そして
プライベートレッスンとは真逆の”学校”で勉強するという機会だった。
1つか2つのコンクールにも挑戦したかった。
そして、できるだけたくさんの音楽を聴くことだったんだ。”
ニューヨークに到着したワイセンベルクは
Artur Schnabel とWanda Landowskaにレッスンを受けた後、
ジュリアード音楽院に入学しました。
そこでOlga Samaroffに師事しました。
ワイセンベルクはこのとき、Vincent Persichettのもとでも
作曲を学んでいます。
1947年、18歳のアレクシス・ワイセンベルクは
Leventritt Competition と the Philadelphia Youth Competitionで優勝しています。
この賞の受賞により
ワイセンベルクはUSデビューを果たし、
ショパンのピアノ協奏曲でニューヨークフィルハーモニックとの共演でした。
ワイセンベルクのフランス、パリへの移住、そして空白の期間
1956年、ワイセンベルクはフランスのパリへ移住します。
このとき、彼は27歳。
その後、フランスの市民権を取得しています。
その後しばらく
ワイセンベルクは表舞台から遠ざかっています。
その間、自身のテクニックを磨くこと、
レパートリーを増やす時間に費やしました。
その理由は、
”自分は若い芸術家としてニューヨークで早く学びすぎたし、
演奏する機会を得るのも早すぎた。
10年で自分のレパートリー曲は何度も何度も演奏され、
誰かの代役のようになってしまうのも、
50歳になってもまだ”将来を期待されたピアニスト”という立ち位置にいるのは嫌だったんだ”
この間はワイセンベルクはピアノを教えることで
生計を立てていました。
このあと
ワイセンベルクと黒柳徹子さんの恋は始まった??
ワイセンベルクは結婚していた?子供は3人
ワイセンベルクはどうやら結婚の経験があるようです。
Marriedと書いてあり、
子供は3人、息子のデビッド、娘のクリスティーナとマリアがいるそうです。
しかし、何年に何歳でワイセンベルクが結婚したとか、
相手はフランス人なのか、スペイン人なのかなどの情報は一切見つけられず、
晩年を妻と過ごしたような記述はありません。
ワイセンベルクの妻は誰?いつ結婚?3人の子供が!黒柳徹子と不倫?
ワイセンベルクと妻の2ショット写真なども見つけられず、
結婚したけれど、離婚または死別などで
一緒に晩年を過ごしたわけではないように思えました。
結婚していたとしたら、この表舞台から遠ざかっていた期間だと思われます。
だから、あまり知られていないのかもしれません。
アレクシス・ワイセンベルク60代で表舞台へ戻ってくる
60代の半ばになって
ワイセンベルクはまた表舞台に戻ってきます。
パリでのリサイタルのあと、
ベルリンフィルハーモニックとの共演もしました。
再度、ピアニストとしてトップに戻ってきたワイセンベルク。
ヨーロッパ、アメリカ合衆国、南アメリカ、そして日本で
次々とツアーをしました。
オーケストラとの演奏や有名な指揮者との共演、
歌手との共演など精力的に活動していました。
ワイセンベルクが初めて作曲したのは9歳のときで
それからいくつかの曲を作曲し、
最後は1982年にジャズ風のピアノソナタを作曲しています。
ワイセンベルクは教えることにも情熱を持っており、
1993年、64歳のときに
スイスのエンゲルバーグに
アレクシス・ワイセンベルク ピアノマスターコースを開校し、
そこで若いピアニストたちに教えてきました。
ヘルベルト・フォン・カラヤン=オーストリアの指揮者で
1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者を務めたカラヤンに
”アレクシス・ワイセンベルクは、そのパーソナリティーと
素晴らしい洞察力で、20世紀を代表する演奏家だと言っていい”
と評価されています。
アレクシス・ワイセンベルクの晩年はパーキンソン病との闘病、そして死去
その後はスペイン移住を経て、
スイスへ。
パーキンソン病を患い、
2001年に最後のコンサートをしたのが最後になりました。
そのとき、ワイセンベルクは、72歳。
その後、10年ほどは病と闘い、
2012年1月8日、スイスのルガーノで83歳で永眠。
アレクシス・ワイセンベルクと黒柳徹子の恋そして別れは?
国際的なピアニストのワイセンベルクと
黒柳徹子さんがいつどこで出会い、恋に落ちたのか
こうしてワイセンベルクの人生を振り返ってみると、
こちらの記事でも書いたように、
ワイセンベルクは9回ほど来日しているので
そのときに出会った可能性が高いのではと思われます。
黒柳徹子さんいわく、
”40年間交際していた。”とのことなので
出会いは2人が40代のころだとすると、
ワイセンベルクがパリに移住し、
表舞台から遠ざかっていた期間に該当しますね。
40年間の交際ということですが、
ワイセンベルクは70歳ごろからパーキンソン病にかかっているので
晩年10年ほどは思うように海外に行くことができなかったのではと推測されます。
黒柳徹子さんがワイセンベルクの住むスイスを訪れていた可能性もありますが、
徹子の部屋の撮影などあり、長期間日本を離れることは難しかったかもしれません。
そう思うと、
黒柳徹子さんの恋って、
会えない時間が長かったのかな?とか、
ただ相手が生きていてくれるだけいいと思える恋ってすごいなと思います。
2人の別れは、
身体的なことでいえば、
ワイセンベルクが病で表舞台から遠ざかってしまった時期の可能性も
高いですが、
心と心の結びつきでは、
2人に”別れ”は訪れていないのかもしれませんね。
ユダヤ人として強制収容所から亡命を果たし、
のちにピアニストになったワイセンベルクの話を聞いて、
黒柳徹子さんが難民支援などの活動に力を入れていったのは、
恋人、ワイセンベルクの影響もあったのかもしれないと思ったんですが、
いい恋だったんですね。
そして、黒柳徹子さんの活動を聞いて、
彼もきっとうれしかったんじゃないかなと思いました。
うらやましくなるほどの黒柳徹子さんの大恋愛。
ドラマ、トットちゃん!の続きは見逃せません!!
ドラマ トットちゃんで描かれる黒柳徹子さんの恋はどこまで事実?
徹子の部屋で城田優さんが直撃!
カール祐介ケルナーは実在せず!モデルは?トットちゃんの恋はどこまで事実?
まとめ
ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルクという人の存在を
黒柳徹子さんの外国人恋人として初めて知りましたが、
その生い立ちや亡命、ピアニストへの道をあまり知る機会がないかもしれないと
こうしてまとめてみましたが、
第二次世界大戦のドイツ、ナチスの強制収容所に
ワイセンベルクが入っていたこと、
母が教えたピアノ、叔母の贈ったアコーディオン、
逃がしてくれたドイツ人看守、
そして、黒柳徹子さんとの出会い。
ワイセンベルクの人生は人に恵まれた人生だったのかなと。
とてもエレガントでユーモアのあった人だったそうなので
つらいことも経験した分、優しい人だったのかなと感じました。
気になるのは、
一緒に亡命しなかったお父さんの行方ですが…。
写真やCDのジャケットのアレクシス・ワイセンベルクは
とても端正な顔立ちで、
ハンサムなピアニストですね。
ドラマ、トットちゃん!で城田優さん演じるカール・祐介・ケルナーは
ワイセンベルクがモデルだと思いますが、
イメージがあっているひとを選んだなぁと感心します。
黒柳徹子さんとワイセンベルクの恋が
40年もバレずにいたのはすごいですし、
こうしてドラマという形でたくさんの人に見てもらって
黒柳徹子さんはきっと恋人との日々を懐かしく思い出しているのではないでしょうか。
トットちゃん役の清野菜名さんもかわいくて、
城田優さんもかっこよくて、
ドラマ、トットちゃん!最高です!
ワイセンベルクのピアノをゆっくり聴いてみたくなりました。
参考サイト:http://alexisweissenbergarchive.com/biography/